フィリップ 2 世 ツイッター。 フィリップ2世 in Deutsch

消えたローマ教皇 前編・フランス王権の強勢

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プロヴァンス プロヴァンスはかつて王国であった。 855年のロタール1世の死によって分割相続された中フランク王国の後継国家の1つである。 その後一時的に西フランク王国に組み込まれるが、879年に反乱を起こしたボゾが王位につきフランクからの独立を勝ち取る。 しかし933年にブルグント王国に併合されて消滅。 ボゾの子孫(ボゾン家)はプロヴァンス公としてブルグント王に臣従する。 1032年にブルグントが神聖ローマ帝国に編入されてからはプロヴァンスは帝国の一部となっていた。 1134年にボゾン家最後の生き残りアルシェンダが死去。 長男フィリップがプロヴァンスを継承した。 そして今、フィリップのフランス王位継承によりプロヴァンスはフランスに編入されることになったのである。 1140年1月29日 フィリップは弟ジェローをプロヴァンス公に、もう1人の弟マナセスをブルゴーニュ公に封じた。 新王が即位したら弟に領地を与えることがカペーの伝統である。 ジェロー死す 1141年8月14日 ガスコーニュ公ジェローが54歳で他界。 長女マオーがガスコーニュ公領を、次女エルマンガルドがポワトゥ公領を分割相続した。 同年9月25日にはポワトゥ女公エルマンガルドが結婚。 相手はブルターニュ公ジュリアンの嫡子ゴドフロワである。 子供が生まれればブルターニュとポワトゥが1人の公に統合されることになる。 「何故結婚を許したんだ。 近親婚じゃないのか?」 宮廷司祭長ウードを詰ったところで教皇が許可している以上どうしようもない。 フィリップは王権法の強化を目論んでいたのだが、こういう事態になったからには先送りせざるを得ない。 諸侯の反感を買うからではない。 王権を強化するという事は諸侯の領内における権限を強化する事でもあり、これまで王家の特権だった長子相続を諸侯に認める事につながりかねない。 長子相続の下で今回のような諸侯同士の婚姻が続けば、かつてのアキテーヌ公のような大諸侯を生み出すことになる。 「王権法の改正は凍結すべきかと」 大臣キナートの意見に他の顧問も賛成する。 フィリップも同意せざるを得なかった。 継承法 古今東西、君主制を採用する国には様々な継承法があった。 例えば長子相続がある。 これは君主の長子が父親の全ての権利を相続する制度である。 長子が死去していた場合は長子の長子が継ぐ。 長子の子もいない時は次子が継ぐ。 但し、女子の継承権を認めるか否か、また姉と弟でどちらを優先するかによりこの制度は細分化される。 フランス王家は男子のみに継承権を認めている。 現代日本の皇位継承制度と全く同じルールである。 一方イングランドは男子優先ではあるが、男子がいない時は女子の継承権も認めている。 フィリップの王妃セスリスは男子の兄弟が全て子を残さず他界した為、王位継承者となっているのだ。 中央アジアの遊牧民族には末子相続の伝統がある。 これは遊牧民は成人したら父親から家畜や隷属民を分与され独立する為、最後に残った末子が父親の残された財産を相続する風習である。 従って父親が死んだ時点で独立していない子が複数いた時はその中の最年長者が継ぐ。 (ck2では未実装) 有名なチンギス汗は長男であったが、成人前に父が死んだ為、父の権利の全てを相続したのである。 一方で一族の長老が全ての家産を管理する社会もある。 国家レベルでこの制度を導入する例は多くはないが、分権的な部族社会や都市の市民階級に広く見られる。 現代のサウジアラビアでは王位は兄弟で相続されるケースが多いがこれも年長者相続の一形態といえる。 イスラム圏では長幼の序は厳格ではなく家族と親族の呼称上の区別は存在しない。 また一夫多妻制であることも相まって継承法が明文化される事はあまりなかった。 要するに、君主が継がせたい子に継がせるのである。 勿論、君主の意図した通りに事が運ぶとは限らず、権力を巡る親族間の抗争が頻発するのもイスラム圏の特徴であった。 極端な例になるが、オスマン帝国は継承者の兄弟は野心のあるなしに関わらず全員処刑されるという非情な伝統をもっていた。 世襲によらない制度もある。 王政時代のローマや近世のポーランドのように被選挙権者を特定の家系に限定しない国もあれば、モンゴル帝国のように王家の成員から選ばれる国もある。 神聖ローマ帝国はドイツ王を選挙で選ぶ国として有名だが、選帝侯の制度が明文化されたのは1356年であり、この時代はまだ王選出の明確な基準などない。 ただ皇帝に嫡子がいれば時期皇帝として支持を集めやすい傾向がある為、ザーリアー家やツェーリンゲン家による事実上の世襲が行われている。 しかしこの時代、最も一般的だったのは分割相続である。 古くはフランク族がこの風習をもっており、その流れを受け継ぐフランスにおいても王家を除くほぼ全ての封建領主がこれを採用している。 そもそもフランスという国そのものがフランク族の分割相続によって誕生したものだ。 分割相続は代を重ねる度に領地が細分化されるという欠点があり、フランク王国の覇権が短期間で崩壊した原因も分割相続の抱える制度的欠点にあった。 カスティーリャ連合王国の分裂 カスティーリャ、レオン、ガリシア、アラゴン、ナヴァラ。 イベリア北部には5つの王国がある。 1141年現在、ヒメノ家のガルシア2世がナヴァラを除く4つの王国を束ねていた。 ヒメノ家は英雄イニゴ・アリスタの系譜をひくバスク人の王朝で元来はナヴァラの王であったが、本貫のナヴァラは女系継承によりウェールズ系のモルガン家に渡っている。 1130年にはガディス家のポンセがアラゴン王に推されヒメノ家から独立した事もあったが、1137年にはガルシア2世の再征服にあい独立を失っていた。 しかしその一時的な独立期に国土の多くがフランスに侵食されており、アラゴン王位は名目上のものとなっている。 1142年7月19日 フィリップは自らが正統なアラゴン王であると宣言。 ガルシアはこれを無効であると主張したが、在地領主の半数以上がフィリップの封臣となっているのが現実であり、後世の史家はこの時をもってアラゴンの王朝が交代したとみなしている。 トルコ人クテイ ジャスク太守の四男 クテイはペルシャ湾岸のジャスクを治める太守の四男だが、その所領は狭く四男の彼が受け継ぐ土地などなかった。 己の才覚で国を切り取る道を選んだ彼は流民や馬賊、ならず者の類を糾合しわずか2年で一大軍勢を築き上げ、永遠の聖地エルサレムを征服すべく決起したのだ。 クテイの軍勢は2万を超え、現地の兵力だけで聖地を守る事は不可能だった。 「聖地はならず者どもに包囲され善良なキリスト教徒が危険に晒されております」 聖地の総督を務めるアスカロン公アルバルから急使を受けたフィリップは4万の軍勢を率い現地に向かった。 相手は異教徒のならず者である。 町や村は焼かれ住民は略奪や虐殺の危機にさらされている… しかし現地についてみると事情は全く異なっていた。 クテイに制圧されていた町や村はどこにも略奪・虐殺の痕跡がなく住民はこれまで通りの生活を続けている。 「クテイの軍は軍律が厳しく、市民への乱暴狼藉は死罪になるとか」 元帥アンドレの報告に感銘を受けたのか、フィリップはクテイという男に強い興味をもった。 並みの男ではあるまい… しかしパレスチナを席巻したクテイの軍勢も4万のフランス軍を前にはなすすべもなく、各地で連敗を重ねていく。 第二のセルジュークにはなれなかった 「改宗して余に仕える気はないか?」 フィリップの提案にその場にいた誰もが驚いたが、一番驚いたのはクテイだったろう。 「アッラーの他に神はなし。 イーサー(イエス)の教えに帰依するつもりはありませぬ」 「コーランではユダヤの神もアッラーも同じ唯一の神だと説いているそうじゃないか」 「しかしキリスト教徒の説く三位一体説は認めておりません。 神が受肉するなどありえない事です」 「ありえない事が出来るから神じゃないか」 「神がそのような事をされる合理的理由がありません」 「真意は神のみぞ知る、だ」 「そんな詭弁を…」 初めは頑なだったクテイも次第にフィリップの人間的魅力(外交29!)に惹かれていく。 クテイは改宗を決意し、その夜のうちに洗礼を受け敬虔なキリスト教徒としてフィリップに近侍するようになった。 密偵長スヴェイン カタリ派に染まったうえ悪魔憑きの特性までついている… 1146年4月7日 フィリップはスヴェインを私室に招いた。 彼は父と同い年のこのノルウェー人を尊敬していた。 「率直に問うが、宮中の噂は真か?」 スヴェインはしばしの沈黙のあと「然り」とだけ答えた。 「教会に腐敗した聖職者がいることは確かだし批判する気持ちもわかる。 だが異端は行きすぎだ」 「正統か異端かは神が決めること。 教会の言い分は人間の驕り以外の何者でもありませぬ」 「王として教会の認定した異端を許すことはできんのだ。 カトリックに復帰してくれんか?」 「王といえども魂まで支配する事はできませぬ」 「神は唯一にして全能。 正統だの異端だのは解釈の違いでしかなかろう。 ならばカタリの形に拘る必要などあるまい」 「陛下は神を理解しておられない。 解釈こそが最も肝要なのです。 解釈などどうでもよいとなれば偶像を崇める蛮族の教えと変わりませぬ」 「解釈の違いで争うなんて馬鹿げている」 「私の考えは変わりません。 どうか私をお裁きください」 「余はお前を救いたいのだ」 「陛下、お裁きを!」 同日、スヴェインは密偵長の職を解かれ投獄された。 フィリップはその後も説得を続けたがスヴェインが改宗に応じる事は最後までなかった。 2年後、スヴェインは敬虔なカタリ派として67年の生涯をとじた。 キナート死す 1150年9月12日 大臣キナートが59歳で死去。 後任の大臣に選ばれたのはトルコ人のクテイである。 クテイはキナートが携わっていたイベリア各地への要求権捏造を引き継ぐ事になった。 1151年1月7日 王太子ルイとトスカナ公女アデリンデの婚約が成立した。 トスカナ公には男子がなく、このままいけば北イタリアの広大な所領がフランス王家のものになる。 長男の結婚相手は王侯の女相続人から選ぶのもカペーの伝統である。 1152年2月4日 王太子ルイが大臣に就任した。 前大臣クテイはフィリップの私的顧問として主にオリエントの情報収集に携わることになった。 彼は直接現地に赴きかつての仲間から情報を集め、王に報告書を提出した。 クテイの報告 隆盛を誇ったセルジューク朝は宮廷の腐敗とそれによる政治的混迷の中にあった。 1117年にマリク・シャーからスルタン位を奪ったウスマン1世は君主号をペルシャ風のシャーに改め、宮廷の風習も刷新しようと試みた。 しかしトルコの現実と乖離したウスマンのペルシャ的専制支配は一族の離反を招く。 1135年、トルコの君侯たちはウスマンの従兄弟にあたるトリポリ太守バトゥレイを担ぎ挙兵、ウスマンは廃位されバトゥレイがスルタンとなる。 宮廷からペルシャ色は一掃されたがこれにより王朝の退廃が食い止められる事はなかった。 1140年にバトゥレイが崩御するとまたもやスルタン位を巡る内乱が勃発。 従兄弟のアルプ・アルスラーン2世が勝利しスルタンに即位した。 スルタンとなったアルスラーンは失墜した権威の回復につとめビザンティンやヒヴァへの外征を繰り返す。 しかし1151年8月5日、ホラズム君侯デュンダルとの戦いに破れスルタン自身が捕虜になるという大失態をおかしてしまう。 アルスラーンは翌年獄死し、孫のソグメンがスルタンとして即位した。 しかし新スルタンは僅か10歳であり、内憂外患を多く抱えるセルジューク朝は統治能力を喪失しつつあった。 「エルサレム王国の版図を広げる好機かと存じますが」 「いや、やめておこう。 オリエントは遠すぎる。 聖地だけで十分だ」 フィリップは現実主義者である。 聖地の維持だけでも大変なのにこれ以上リスク要因を拡げるつもりなど毛頭なかった。 クテイはその後もオリエントで活動を続け中東情勢について多くの報告書を送り続ける。 しかし3年後の1155年8月4日。 肺炎にかかりわずか31歳で急逝した。 世代交代 1152年12月12日 王弟プロヴァンス公ジェローが40歳で死去。 長女ベノワトが公領を継承した。 1153年3月12日には家令ジェローが死去。 後任の家令にはノルマンディー公ヴァルランが選ばれた。 かつて父アンリ2世に反旗を翻した野心家だが、宮廷に取り込むことで動きを縛る目的もあった。 12世紀のヨーロッパは人口増加と経済成長の時代であり、辺境が開拓され新しい都市も次々と勃興する時代であった。 フランスも例外ではなく、フィリップはその治世下に多くの城塞、都市、教会を建設した。 尤も、いかに国が豊かになり税収が増えたといっても、それだけで城塞の建築費が賄われたわけではない。 フィリップが利用したのは捕虜の身代金だった。 王は戦争捕虜や陰謀を目論んだ廉で投獄した諸侯たちから身代金をとることでインフラ整備の財源にしていたのである。 都市や教会はその土地の有力者に委ねられたが、城塞はもっぱら顧問への知行に充てられた。 フランスでは顧問を10年勤めれば男爵になれる。 その噂は各地に広がり立身を夢見る多くの才能がパリにやってくるようになった。 ドイツ人ワルテールもそんな1人である。 ワルテールはニュルンベルグ伯ヘルマンの私生児であったが、醜聞を恐れた父からは認知されること無く庶民として育った。 しかしその逆境で身につけた処世術は彼を有能な外交家に成長させていた。 帝国来襲 フランドル東端の都市ヘントはケルト語で「川の合流地帯」を意味する。 フランス語でガンとも呼ばれるこの町はシャルルマーニュの側近アインハルトにも縁の深い古都である。 代々フランドル公の領地であったが、1074年にフランドル公が追放されて以来王家の直轄領となっていた。 しかしフランドルは伝統的に帝国の領域とみなされており、仏独はその領有を巡って昔から紛争を繰り返してきた。 ここ100年ほどは十字軍や聖戦で共闘するなど仏独関係は比較的良好であり、またフィリップの妹サラジーヌと皇帝の弟ジークフリートの結婚によって同盟関係にもあった。 フィリップもそのドイツが牙を剥いてくることは予想していなかったに違いない。 1154年1月29日 神聖ローマ皇帝ヘルマン1世はヘントの領有権を主張、フランスに宣戦を布告した。 裏切り者に皇帝の資格なし パリの宮廷は大混乱に陥った。 フランスはフィリップ1世以来の拡大政策で強大化したとはいえ、それでも帝国には遠く及ばない。 廷臣の中にはヘント放棄を口にする者もいた。 家令ヴァルランや密偵長ウルタルがその筆頭である。 しかし大臣ワルテールは降伏案を一蹴した。 「ヘントを放棄すれば次はブリュッヘ、イベレンと要求してくるでしょう。 また弱みを見せれば諸侯の離反も招きかねません」 ノルマンディー公でもある家令ヴァルランを牽制したものだ。 「しかし勝てるのか?」 元帥の代わりに王の質問に答えたのは宮廷司祭長ウードである。 「聖ドニがお守りくださるでしょう」 聖ドニことパリのディオニュシウスはフランスの守護聖人である。 3世紀に実在したとされる聖人で、異教徒に首を刎ねられた後も己の首を持って説教して歩いたという伝説を持つ。 その聖ドニの遺体が葬られたのがサン・ドニ修道院であり歴代フランス王の菩提寺となっている。 フィリップは甲冑をまといサン・ドニ修道院に向かうと祭壇の軍旗を手に取り、門前で待つ騎士たちの前で高く掲げた。 「モンジョワ・聖ドニ!」 フィリップの発した鯨波の声に元帥アンドレが呼応し、それはたちまち騎士たちに波及していった。 フィリップは武芸を苦手としており馬にも乗れなかったが、人の心を掴む術をよく知っていたのだ。 同日、フィリップは王国全土に動員令を発し、また王妃が治めるイングランドにも援軍を要請した。

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フィリップ5世 (フランス王)

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フィリッポス2世とも表記される。 の子で、、の弟で、先代の王(ペルディッカス3世の子)の叔父である。 子としては次代のとそのまた次の王、らがいる。 の弱小国であったマケドニアに国政改革を施し、当時先進国であったギリシア南部の諸にも張り合える強国に成長させた。 で・連合軍を破り、の盟主となってギリシアの覇権を握った。 ピリッポスの暗殺 アミュンタス3世の第三王子であり、幼少期に将軍が率いるに人質となっていた。 人質といっても牢獄に幽閉されるような暮らしをしていたわけではなく、ある程度の自由が許されており、彼の才能を見込んだエパメイノンダスの家で教育を受けた。 この時代に、ピリッポスは、エパメイノンダス考案のなどのテーバイ軍のを学んだといわれている。 兄の死後、帰国したピリッポスは紀元前359年から甥のを務めた後、マケドニアのに即位する。 ピリッポス2世が即位した頃のマケドニアは、まさに内憂外患の時代であった。 外ではや人などの周辺勢力の侵略を受け、内では王族のパウサニアスがバシレウスを狙っていた。 ピリッポス2世はある時は外交で、またある時は軍事力で、これらの問題を一つ一つ解決していった。 後期から少しずつ強国になっていたマケドニアを、ピリッポス2世は飛躍的に成長させた。 彼は軍制改革を押し進めてマケドニア軍をギリシア最強の軍隊とし、領土を飛躍的に拡大させ、の先進地域であった南部諸の抗争に積極的に介入した。 には、金鉱の開発を促進し、また軍事防衛の拠点とする都市(聖書においてピリピ、フィリピとして知られる)を創設している。 最初の介入は紀元前356年に始まる ()である。 からの支援要請を受けたピリッポス2世はと戦い、緒戦では苦戦するも、の ()でこれを下した。 にマケドニア軍がフォキスを制圧して第三次神聖戦争は終結した。 、ピリッポス2世はを招いて、王子アレクサンドロス(のちの大王)の「家庭教師」とした。 都ペラから離れた「ミエザの学園」で、紀元前340年までアレクサンドロスとその「学友」を教えさせた。 この「学友」たちが、のちに彼を支える将軍となった。 にでアテナイ・テーバイ連合軍を破り、を成立させ、を除く全ギリシアに覇権を唱えた。 さらに遠征を目指したが、娘のクレオパトラとエピロス王との祝宴の席で護衛の ()によりされ、ペルシア遠征の大事業は息子のアレクサンドロス3世に引き継がれた。 仲が悪く離婚していた元妻(アレクサンドロス3世の母)が、の黒幕として永く取りざたされている。 これについてはアレクサンドロスが関与したという説の他、いくつか有力な説があるため、いまだに曖昧である。 また、頃にマケドニア南部のメトネ市 攻略戦で、矢傷により。 マケドニア式ファランクスの創始 [ ] ピリッポス2世は、テーバイの人質時代にを携えたの密集陣形であるを学び取り、さらに長い槍「」の採用およびの大型化により マケドニア式のファランクスを創始した。 サリッサは4. 0- 6. 4メートルにもなる槍で、他のギリシアの重装歩兵の装備した槍よりも長く、その分リーチが長くなっており、その上、後ろの兵士の槍もより多く突き出すことができるという優れたものであった。 また、ピリッポスは、他のギリシア人が重装歩兵を主戦力としたのに対し、騎兵と歩兵をうまく組み合わせた戦術を用い、例えばカイロネイアの戦いでは中央のファランクス部隊に敵を引き付けさせて敵の陣形に割れ目を作り、そこに騎兵を突入させて勝利を得た。 ピリッポスの考え出したマケドニア式ファランクスという新は当時は無敵であり、全ギリシアを征服するのみならず、息子アレクサンドロス3世によるペルシア征服まで成し遂げたほど強力なものだった。 こうしてマケドニア式のファランクスは、の散開戦術に敗れるまで、周辺で200年近くにわたって一世を風靡した。 オリュンピアとの関わり [ ] ピリッポス2世は全ギリシア的大祭であるに参加し、で優勝した。 この知らせはアレクサンドロス3世の出生とほぼ同時期にピリッポスの元に届いた。 ピリッポスは古代オリンピック優勝を大いに喜び、未だ幼名であった彼の妻の名を、オリュンピアにちなんでオリュンピアスにした。 更に生まれた子供に、マケドニア人で史上初めて古代オリンピックに参加したの名前を付けたという。 フィリペイオン [ ] フィリペイオン また、カイロネイアの戦いの勝利を記念し、古代オリンピック開催地であるにというトロス(円形建築物)を献納した。 このフィリペイオンはピリッポス2世の治世では完成することができず、彼の跡を継いだアレクサンドロス3世の治世で完成した。 これは外側に18本のの円柱、内側に9本のの円柱を持つ直径15. 25mの建物であり、古代において最も優美な建築物のひとつと賞賛されている。 子女 [ ] 王の娘 ()との間に1女をもうけた。 () - マケドニア王と結婚 () との間に1男をもうけた。 アリダイオス(紀元前359年 - 紀元前317年) - 庶子、マケドニア王(、紀元前323年 - 紀元前317年) 王の娘との間に1男1女をもうけた。 (紀元前356年 - 紀元前323年) - マケドニア王( - )• ()(? - 紀元前336年)• - 紀元前336年) - アレクサンドロス3世により処刑された 脚注 [ ]• 前808-前778• 前8C• 前8C• 前700—前678• 前678-前640• 前640-前602• 前602-前576• 前576-前547• 前547-前498• 前498-前454• 前454-前448• 前454-前413• 前413-前399• 前399• 前396-前393• 前399-前396• 前399-前393• 前393• 前393• 前393-前392• 前393-前369• 前370-前368• 前368-前359• 前359• 前359-前336• 前336-前323• 前323-前317• 前323-前309.

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インノケンティウス3世に破門された人々ってどうなったの?

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王国のの王。 尊厳王(オーギュスト)と言われる。 在位1180~1223年。 それまで弱体だったカペー朝の王権を強大にする基礎を築いた。 イギリス王とともにに参加したが、いち早く帰国し、一転してイギリス領ノルマンディーに侵入してリチャードの英軍と戦った。 イギリスのジョン王との戦い リチャード1世の死後もフランス国内のイギリス領(プランタジネット家領)の奪取をめざし、リチャードの弟が立つとそれを離婚問題で裁判にかけると挑発し、国王の裁判に出廷しないという封建義務の不履行を口実に、領などのジョンの知行地を奪った。 怒ったジョン王が甥の神聖ローマ皇帝(ドイツ王)やフランドル伯とともにフランスに攻め入ると、にで破り、この結果、フランス国内のイギリス領はのみとなった。 フランス統一王権形成の第一歩 それまでのカペー朝のフランス王は、パリ周辺の直轄地を持つに過ぎず、その西部には広大なの所領が広がっていた。 その他にもフランドル伯やブルゴーニュ公など有力な諸侯が名目的にはフランス王に臣従しながら、事実上は独立政権として存在していた。 そのようななかで、フィリップ2世がジョン王からイギリス領を奪ったことは、フランス王によるフランス全土の支配という国家統一の第一歩となった。 この勝利は、フランスが一つの国家になったことを意味するとしてフランスでは記憶されている。 このようにフィリップ2世はカペー朝フランスの王権の基盤を作ったが、再婚問題からローマ教皇に破門の脅しをかけられ、再婚をあきらめた(1213年)ことがあり、全盛期のローマ教皇には逆らえなかった。

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